学友会解散「永続する学園紛争の拠点」崩壊の軌跡

 

 

岡山大学学友会の起こりと変質

1949年5月31日、岡山大学が創立され、同年10月29日、岡山大学学友会が結成された。成立当初は共済会(生協の前身)と文化部会、体育部会からなる岡大初のそして最大の自治組織であった。初期には各学部自治会をも合併しようとする動きもあったが自治会合併に失敗し共済会も分裂し学友会はサークルのみの組織となった。成立当初の学友会は教官と学生の委員同数で構成される合同協議会が最高意思決定機関であった。初期の学友会は教職員の発言権の大きい組織であったと言える。

学生運動のあけぼのととものに学友会も学生中心の組織につくりかえようという運動が沸き起こってきた。1954年会則改正が成立し学友会は学生主体の組織に生まれ変わる。学生運動を主体的にすすめていた共産党の学生組織である民青同盟や、それと対立する新左翼党派はつぎつぎと新しいサークルをつくり、学友会は学生運動の対立、抗争の場と変わっていった。だが学友会がその性格を決定的に変えてしまうのは1人の人物が学友会に関わりを持つようになったからであろう。

坂本教官来たる

1968年3月、岡山の地は、どんよりとした曇り空がつづき、まだ冬の寒さがつづき、まだ冬の寒さが隠然とその勢力を残していた。そんなある日、冷たい小雨の降りしきるなか、岡大西門バス停に1人の人物がおりたった。彼の名は坂本守信。後に大学を免職処分となり、学友会から事務嘱託員として雇用される人物である。

坂本氏は東京で生まれ育ち、東京教育大学を卒業し、東京大学大学院に進む。坂本氏の母校、東京教育大学は全国でもまれにみる大学の自治意識の強いところであった。特に坂本氏の在学していた文学部は自治意識が高く、文部省もその扱いに手を焼いたという。その東京教育大学は坂本氏が卒業した数年後、廃学となり、筑波大学に創り変えられる。東京教育大学が大学自治の総本山的存在であったのに対し、筑波大学は文部省直轄とも言うべき大学となった。坂本氏の母校は国家権力によってつぶされ国家権力の都合のいいように創り変えられたのである。

1968年坂本氏が東京大学を去ろうとしていたとき、東京の学生運動は大いに盛りあがりを見せていた。坂本氏はそのうねりを背に東大大学院を去る。

坂本氏が岡大の英語講師となったころ東大の学園紛争は激しさを増し、東大安田講堂での学生と機動隊の激突はテレビ中継され40%以上の視聴率を得たという。おそらく坂本氏もこの様子をテレビで見ていたであろう。

1969年1月、8千人もの機動隊の導入で東大安田講堂は陥落し、学生の権力への挑戦は終わった。この東大安田講堂の攻防を機に、学園紛争は全国的に波及する。坂本氏は造反教官と呼ばれるようになる。ハンガーストライキ、授業拒否、試験妨害、ろう城。坂本氏の行動はいまからみれば非常に過激で暴力的に見える。しかし時代の風が過激だったのである。岡大全学がバリケードで封鎖され、機動隊が何度も突入していた。廃学の危機すらあった。そんな時代の話である。しかし坂本氏がその過激な行動をエスカレートさせたのは学園紛争という壮大な祭りが終焉しつつあるところであった。

その祭りが終焉しつつあるとき坂本氏はたった1人でも祭を続けるつもりだったのかもしれない。

1969年9月、岡大紛争は機動隊8百人の導入とその常駐による戒厳体制の下で終息した。その3年後岡大教官坂本守信氏によるあらたな学園紛争が開始されようとしていたのである。                              

坂本守信氏の学園紛争

1972年10月13日。坂本教官が担当していた英語クラスの成績表が教務係に郵送されてきた。そこには{「坂本教官」の<教務>より委託されました<>をお送りします。  < >}という文章が同封されており、差出人は片山恵子となっていた。大学側はこの成績評価が坂本氏自身によってなされたかどうか不明であるとして坂本氏に回答を求めるが、坂本氏はまともにとりあわなかった。

11月16日、教養部教官会議においても同様の問いが坂本氏になされたが、氏は答えず会議室からでていった。教官会議は成績評価は坂本氏によってなされたかどうか不明であるとし坂本教官の英語クラスの再試験と後期授業取り消しを行った。

12月13日、坂本氏と坂本氏を支持する学生10人前後が教官会議に現れ、再試験と授業取り消しは不当であると主張した。

1973年1月17日の教官会議でも同様のことがなされた。1月31日、教養部教務係の掲示物がすべてはがされ103教室に保管する旨の張り紙がなされていた。(103教室は坂本氏らの拠点となっていた)

2月12日、坂本氏は教養部長室に現れ英語試験のため(坂本氏は授業取り消し後も授業をつづけていた)103教室を使用したい旨の要求を行うが教養部長はそれを拒否する。

坂本氏は期末試験時に他教官が監督している教室に侵入、生卵を投げつけたりビラを配布するなどして試験を妨害した。後期試験が終わり、入試のシーズンが近づいても坂本氏らは103教室を占拠しつづけていた。大学側は坂本氏らによる入試妨害を懸念しついに大胆な措置を取ることになる。教養部の建物すべてを施錠し、警備員を配置、坂本氏を教養部の建物の中に閉じ込めたのである。大学側は坂本氏を厳重な監視下において入試を実施した。

しかし3月3日午後4時ごろ全共闘系の「寮戦線」を主体とするグループが「坂本氏を救い出せ!!」とデモを行い、一部が施錠を破壊して建物内に侵入し坂本氏を救い出した。

 4月10日教官会議は坂本氏の行動は国家公務員法に違反しているとして坂本氏の免職処分を決定。5月9日それが全学に公開される。

 この免職処分公開とともに学内に騒然とした空気が流れ坂本氏を支持する学生らは処分は不当だとして気勢をあげはじめた。

機動隊の突入と坂本氏の逮捕

1973年5月10日、坂本氏を支持する学生15名が坂本氏免職処分撤回を要求し教養部A棟にバリケードを構築した。5月11日、「新寮建設!!」「坂本処分粉砕!!」を唱える学生らが学長・学生部長に大衆団交を要求し、一部学生は事務局に突入、窓ガラスをたたき割ってデモを行う。

5月12日、学生らが警備中の教職員に襲いかかり多数の負傷者が出るという事件が起こる。学生らは教養部北門にもバリケードを構築。事実上、教養部全棟を占拠したのである。これを受け大学は授業中止を決定した。午前3時、谷口学長はついに機動隊の導入を決断!!岡山県警より200人以上の機動隊が出動しバリケード封鎖された教養部に突入していった。

学生らのつくったバリケードは次々と突破され、機動隊はついに103教室に到達する。坂本氏支持派のバリケードも破られ、その場で、坂本氏以下数名の学生が逮捕されたのである。

東京教育大学の廃学、東大安田講堂の陥落と同じように坂本氏の祭りは国家権力によってつぶされたのである。あるいは、これこそ坂本氏の求めたものだったのだろうか。坂本氏が人生を投げうってまで、引き起こした祭りは、一瞬の閃光を放った後、終末を迎える。それは同時に熱気に満ちた時代の終焉でもあった。

終わりなき祭をもとめて・・・!!坂本氏、学友会へ・・・!!

岡山駅西口。この周辺に「雀鬼」と呼ばれる雀荘があった。そして坂本氏の姿もそこにあった。この店は坂本氏の経営する店であった。彼は、熱い熱い祭の後、ここで生計を立てていた。そんな坂本氏のもとへかつて氏とともに祭を演じた学生が学友会の事務嘱託員に応募しないかと誘いにきたのである。

 1975年4月、坂本氏は学友会の事務嘱託員に採用される。だが坂本氏が事務嘱託員に採用されたことを知った体育系サークルの一部は坂本氏の雇用に危険なものを感じ、「坂本氏採用取消動議」を学友会幹事会に提出する。この動議に激しい議論が闘わされたが、学友会の大多数が坂本氏の雇用を支持し体育系サークルの「取消動議」を否決したのである。この瞬間、岡山大学学友会は自らの運命を決定してしまったと言える。坂本氏を雇用するということは、大学との全面対決を意味していたからである。

 「永続する学園紛争の拠点」いつしか学友会はそう呼ばれるようになる。坂本氏の祭は終わることなく学友会の中に継承されていったのである。

学友会そして大学祭の変質

坂本氏が事務嘱託委員となって学友会は坂本氏の思想的影響を強く受けるようになる。時が経つにつれ、坂本氏の発言力はしだいに強くなっていった。そして学友会が決める一つ一つの規程、規約に坂本氏の思想・考え方が反映されていった。学友会総務委員会や大学祭実行委員会内の学生の一部には坂本氏の思想を強烈に信奉する者も出はじめた。人は彼らを「坂本派」と呼ぶようになった。坂本氏の思想的影響が最も強く反映されたのが大学祭である。当時大学祭は学友会が主催していた。

坂本氏らは“103被告団”という団体をつくり大学祭に参加する。坂本氏の持論である単位制批判が大学祭のテーマとされることもあった。そして大学祭企画に参加するサークルすべてにテーマに関する討論と基調の提出を強制するほどまでになったのである。討論や基調の提出など必要ないと主張した法経学生会などの他団体が「責任性」に問題があるとして大学祭実行委員会から排除されることもあった。

1983年、大学祭実行委員の立候補者が定数に達しないのは一般学生の「責任性」に問題があるからだとして、学友会は大学祭の中止を決定する。 

学友会は坂本氏の思想に傾倒し一般学生の願いや希望を全くかえりみない組織に変質していたのである。

この学友会の決定に対し、ついに一般学生が立ち上がる。有志の学生らは大学祭再生委員会を組織し、学友会の決定を唯一覆すことができる臨時総会を開催しようとしたのである。しかし臨時総会の成立には2500人以上の学生の出席が必要であった。

だが1983年6月22日、会場となった清水記念体育館には実に2800人以上の学生が集まり学友会の決議をくつがえしたのである。学生の大学祭をやりたいという強い思いのあらわれであった。

坂本氏排除が本格化!!坂本派と土屋勝氏の闘い!!

1983年より坂本氏が学友会に存在しているのは問題ではないかと考える人達が学友会内にも現れはじめていた。学友会が坂本氏を雇用してより実に8年の歳月が流れていた。

地域問題研究会、社会問題研究会はプロレタリア青年同盟という新左翼党派の流れをくむサークルであった。彼らは1973年には坂本氏の雇用を積極的に支持し、事務嘱託員としての雇用にも積極的であった。その彼らが反坂本派に転じたのである。党派闘争の色合いをもった転向であったかもしれないが、この反坂本派に一般学生も強い支持を与えていったのである。

そして反坂本派に強力な味方が現れる。土屋勝。彼は新聞会出身で学友会副委員長や大学祭実行委員を務めたことのある人物であった。83年、土屋氏は地域研、社研などとともに坂本氏が学友会に必要かどうか議論するため“嘱託問題を考える小委員会”の開催を求めた。83年7月小委員会は開かれた。土屋氏は嘱託員の賃金支払い方法が労働基準法に違反している点や総務が知らないうちに坂本氏以外の者が事務の仕事をしている点を突き激しく坂本氏らを追及した。それに対し、坂本氏らは法律を絶対化することは現実関係の蓄積を無視し人間関係を破壊させるものであると反論し、また77年の合意書にある「坂本」とは坂本守信個人を示すものでなくその複素数性・関係性をあらわすものであるとして総務に知らせずとも事務のことで学友会に迷惑をかけなければそれでいいではないかと反論した。このように小委員会は禅問答か神学論争のような不毛な論戦となった。

84年学友会は再び大学祭の中止を決定。84大学祭は開かれなかった。土屋氏は何とか自分の在学中に坂本氏を学友会から排除しようとした。しかし果たせず彼は岡大を去っていったのである。

 

考古研事件発生!!

正常な活動をしていた部が坂本氏と坂本派により破壊され乗っ取られた。多くの人がこの事件にそんな印象を抱いた。事件の実相に触れるため1985年1月20日に出された考古学研究部による「いわゆる考古研問題にかんする考古研報告」を引用しながら記していきたい。

「午後2時から始まった討論は既に平行線をたどり、何度も何度も同じ内容が繰り返され、これ以上、進展は認められない所までに到っていた。そこで参加部員1人1人に意見をもとめたところ、保利氏(仮名)の提起に同意しないものが保利氏を除いて全員であり、以上のような参加者の意見をふまえて時間的、内容的な限界から、部長が討議を打ち切った。すなわち保利氏の提起は他の部員の受け入れるところでなく、打ち切りは部長の一方的決定でなく、保利氏以外の部員の総意である。(「いわゆる考古研問題に関する考古研報告」より)」

保利氏とは考古研より出された大学祭実行委員を務めた人物である。考古研報告には「保利氏は9月12日以降、自発的休部状態にあり(休部の申し出を部長は慰留)・・・」とされている。85実行委員となって後はあまり部の活動には参加していなかった様子がうかがえる。

その保利氏が1985年12月21日の考古研の部会に大学祭実行委員をオブザーバーとして伴い突然現れたのである。

保利氏はその部会で「部長・副部長・幹事の三役は考古研部員以外にも就任資格を与え公開シンポジウムの場で改選する。」という提起を行ったのである。そしてその提起に関する討論が行われた。10時間に及び討論の末、保利氏の提起は保利氏以外の部員全員に反対された。

1986年1月7日考古学研究部は保利氏に知らせず臨時部会を開催している。「1月7日、保利氏らに知らせず臨時部会を開いた理由の一つとして、昨年12月21日、提起者保利氏らとの10時間に及ぶ討論の結果、話し合う基盤がないこと(あくまで保利氏が自分の主張するのみで人の考えを受け入れようとしない)が判明したことがあげられる。加えて提起された内容即ち「公開シンポジウムによる三役改選」に保利氏をのぞく他のサークル活動をしている部員全員が反対の意思を表明したことによる。今後基盤のないまま延々と討論が続き部内で三役改選がおこなわれないまま正常なサークル活動を妨害され続けることを危惧した我々は、1月7日の臨時部会において三役改選を行ったのである。ただしこれは条件つきの改選で翌日の定例部会において、正常な運営が可能と判断されれば改めて選挙を行う。もし予想通りであれば昨日の新三役決定の確認のみで部会を打ち切るというものであった。」(「いわゆる考古研問題に関する考古研報告」より)

定例部会の日に部室を訪れた考古研部員らは驚くべき場面に遭遇する。

「翌1月8日、保利氏らは予想以上の状況のもとで我々を待ちかまえていた。考古研の看板が外され、長いす等でバリケードをきづき黒板に『考古研はもはや存在しない』という旨の宣言文が書きなぐられ、机の上にかけのぼり天井に貼ってあった班別名簿を破りとり丸めてゴミ箱に捨てた上で『これは俺の基調に基づく行動だ。』と叫ぶなど奇怪な言動を行った。」(いわゆる考古研に関する考古研報告より)

考古学研究部が部員である保利氏に知らせず臨時部会を開いた点は批難されることかもしれない。しかし保利氏は実力によって部会を阻止するという拠にでたことはそれ以上に批難されることだろう。だがこの事態が考古学研究部の存亡に関わってくるのは坂本氏と85総務がこの事態に意外な形で関わりだしてからである。

「我々は当番にあたっていた3階廊下、2〜3下階段の清掃を行い、完了後事務室に報告にいった。当番表に印を押してくれるよう総務嘱託に要請したところ保利氏は総務嘱託坂本氏に『考古研は解体した。よってその掃除は考古研としてやったのではない』という主張を続けた。ところが坂本氏は保利氏1人の言う「解体」の根拠を聞きもせず部長を含むその場に居あわせた考古研部員多数と同等に扱い『異なる2つの申し立てがなされ、そのどちらとも判断しかねるのいで、ここでは印を押せない』という意味の回答を行った。つまり部員と自認する多数のメンバーがいても部員一人が一方的に『解体宣言』するとたちまちサークルの存在が不明確になるというのである。(「いわゆる考古研問題に関する考古研究報告」より)

考古研部員達は事務室にいた85総務の堀内政史氏(仮名)に坂本氏の代わりに確認印を押すようにたのむが拒否されている。ここにおいて考古学研究部は部としての存亡の危機に立たされたと言える。この時期すでに掃除などの仕事を履行しなかった場合、点数が加算されていき5点に達すると学友会公認が取り消されるという方針<0>と呼ばれる規定が成立していた。坂本氏や総務委員が掃除当番履行確認印を押すことを拒否したことにより考古研の公認取り消しという危機がにわかに浮上してきたのである。

その後、考古学研究会側から、そして保利氏側から相方を批難するビラが大量に出され考古研事件は泥仕合の様相を呈しはじめた。

2月27日考古学研究部の部員達は「坂本派」に乗っ取られるぐらいなら部をつぶしてしまえ!!と学友会幹事会に廃部届をたたきつけて去っていった。これにより考古研事件は一様の終結を見る。

考古研部員達が学友会を去って行き、保利氏のみが考古研に残った。この後、「考古研は解体したと」と述べていた保利氏が考古研の幹事として以後8年間、学友会幹事会に出席し続ける。かつての考古学研究部の人達は、考古学同好会として学友会を離れて活動していたが、数年後消滅する。保利氏が考古研の幹事となった考古研には85総務の何人かが入部している。顧問教官がやめるなど考古学研究部は部としての書類上の体裁すら整えなくなったが、学友会公認サークルとして95年の学友会解散まで存在し続ける。保利氏が考古研の代表者となって後、公開シンポジウムで三役改選が行われたという記録は残ってはいない。

85総務委員会不信任案の提出と新集団「岡山大学体育会」の登場

考古研事件は学友会に深刻な対立関係を生み出していた。「考古研は解体した。」といっていた張本人である保利氏が考古研幹事として幹事会に出席し始めたことは一般学生に抜き差しならない不信を生むことになる。

「保利は坂本の金魚のフン」「三位一体の総務と坂本と保利」「死ね坂本守信&金魚のフン、おまえが天皇制だ!!」などと書かれた主体不明の怪文書もバラ巻かれ、坂本氏や85総務への不信感が煽られていった。

一般サークルには学友会を何とかしなければならないという思いが募っていった。もはやこんな学友会なら解散してしまった方がいいと言う意見も聞かれるようになった。

そんな中、全く新しいサークル集団を結成しようという意見が静かに、しかし熱く語られけれるようになっていった。岡大には開学以来、学友会以外のサークル連合組織は作られたことはなかった。新集団結成には大学側の強力なバックアップが必要であり、それがなければ、絶対に成功は得られないことであった。しかし当時の学友会には大学当局と交渉したものは即、公認をと取り消すという規定<Z>によって大学当局との交渉は厳しく規制されていた。しかし競技スキー部の原田和紀氏を中心とする体育系サークルの大部分は新集団「岡山大学体育会」の結成を決め、大学側と交渉を開始したのである。

一方、地域研・社研は考古研事件を機に激しい「反坂本キャンペーン」を展開した。大学側との交渉を嫌った彼らは85総務不信任案の可決によって「坂本派」総務を排除しようとしていた。この動きに多数の文化系サークルが追随し始めた。

1986年4月23日、岡山大学評議会(岡山大学における最高決定機関)は「岡山大学体育会」の設立を承認する。

原田氏ら体育系サークルは「体育会学友会脱退宣言」をもって1986年4月28日、学友会幹事会に望む。折りしも、その同じ日、文化系サークルが85総務不信任案を提出しようとしていたのである。多数のオブザーバーが幹事会に出席し騒然とした雰囲気の中で1986年4月28日幹事会は始まった。

1986年度学友会活動報告の4月28日幹事会議事録を引用しながら当時の幹事会の様子を垣間見てみたい。

―拍手、やじ―

議長 静粛にお願いします。

新聞会オブ あなたにわかるように言えば、我々は今、学友会がなくなるかもしれないという不安のもとに何とかしようとして

こういう行動にでたわけ。多少理不尽かもしれない。なぜこんなことをするのかといえば、理由があるんです。一つの考古研というサークルがなくなってしまった!

保利氏 なくなっていない! 

やじ なくなったんだ。なくなったんだ。

新聞会オブ 学友会に見切りをつけてどっかよそへいこうとしている学友達が何百人もいる。

―拍手―

やじ そしてなぜかというと坂本がいるからなんだ。

―拍手―

保利氏 坂本がおろうがおるまいが知ったこっちゃない。

新聞会オブ 言うねえ。そこまで言う根性がるなら私はあなたを買いたい。だけど、いままで坂本さんにいいようにあやつられて、やりたいことを見失ってきた人が何人もいた。そういう風にこれ以上なりたくないんだ。なんとかしようというこれは悲鳴なんだ。

だから我々はこれを何とか通したい。

―拍手―

(中略)

―混乱―

(「86学友会活動報告」より)

このやじと怒号が渦巻く異常な状況の中、審議は終わることなく続いていく。

原田氏らは「不信任案」採決に参加してのち「体育会学友会脱退宣言」を行おうと考えていた。しかし85総務の頑強な抵抗を前に学友会幹事会は泥沼のような論戦に突入していった。原田氏はついに決断した。

原田氏 議長!!我々、体育会は学友会を脱退し「岡山大学体育会」を結成することをここに宣言します。

体育会24サークルは原田氏とともに議場を後にした。ここに岡山大学学生史上はじめて学友会と異なるサークル連合組織が出現した。原田氏らがあとにしたのは学友会であり、坂本氏らであり、またそれと対立する者達であった。そしてそれらを含む「永続する学園紛争」との決別を意味していた。岡山大学体育会は原田和紀氏を初代体育会総務委員長とし新たな地平を切り開いていった。

 原田氏ら体育会が議場をあとにしたのちもなお学友会幹事会はつづく。

議長 審議が始まって1時間30分ほどたちましたので10分休憩をとりたいと思いますが。

―えー?―

やじ なにを言ってるんだ。早く採決しろよ。反対意見なら反対意見で決をとって打ち切ろうぜ。

―拍手―

保利氏 幹事会というのは討論をする場でしょう。質問に答えなさいよ、一回ぐらい。

やじ 討論の話はもういい。おまえがいるからややこしくなってるんだ。

―言い合い―

議長 双方がかみあわないようなんで、10分程度休憩を。

やじ 10分たったら双方がかみあうのかいつまでたってもかみあうはずがない。根本的に違うんだから。ぎりぎりのところまできているんだぞ。

議長 7時15分まで休憩したいと。

やじ 何をいってるんだ。それは緊急動議か?

85総務堀内氏 ぎりぎりの状況にあるんでしょう。だからもっと冷静になって。

やじ 何をいってるんだ。もう全て出尽くしているんだ。反対意見は反対意見として決をとればいいじゃないか。議長、全体を把握して、状況を見てくださいよ、どうなっているのか。

議長 総務C内でもちょっと話し合いたいので10分休憩をとります。

やじ 10分とってどうするんだ。

委員長 15分より再会しますので。休憩します。

―やじのうず―

やじ こういう総務が不信任なんだよ。

(中略)  

議長 さっきも確認しましが、採決動議が出されて意見質問はありませんかといったとき、そういった質問が出されるのですから、それらは一応提起者側には答える義務があると思いますが。ですからその時点で採決動議は白紙に戻ったということになりますが。

地域研 では質問が出尽くすまでは採決はとらないと。

85総務 あたりまえでしょ。

地域研 議長、確認します。絶対とらないということだな。

議長 ○○○といった質問がでるならば、それは答えるべきであってそれはそうです。まあ訳のわからない質問ならば切るべきでしょうが。

地域研 さっき議長が当たり前の質問がでるならばといわれましたが、そんなことじゃあ朝になっても質問は終わりませんよ。決はとれませんよ。

85総務堀内氏 この場で議決権をもつ幹事が全会一致で決をとっていいということになれば・・・。

―やじのうず―

やじ 君らはいつも自分の悪いときにはそういって、都合のいいときには過半数で押し切るじゃないか。そういう総務だから不信任にするんだ、僕らは。

―拍手―

(中略)

やじ 決をとりましょう。えっと採決にうつってよろしいでしょうか。

議長 えっと採決にうつってよろしいのでしょうか。

保利氏 あの、こういう形で総務Cが悪いと切っちゃうまだ問題が明らかになってから・・・。

映研 あの不信任というのはかなり重要事項なので、部に持って帰って部会で決めたいのですけれど。

(中略)

オブ 部内討論を必要とするところは保留にすればいいのではないですか。未来において賛成か反対か判断すればいい。

議長 保留は未来における一票はあるということで、採決にうつってよろしいでしょうか。

そしてこの歴史的な議案は採決にかけられた。賛成46サークル、反対1サークル、棄権4サークル、保留7サークル。圧倒的賛成多数で85総務不信任案は可決された。この不信任案可決は学友会の歴史にとって大きな転換点となるものであった。だがこの後、不信任案を可決したグループは激しい試練に直面することになる。

学友会裁判

85総務不信任案の可決により、手痛い敗北を喫した、旧85総務側はなりふり構わぬ巻き返し工作を展開し始める。 

不信任可決の翌日の4月29日、旧85総務の堀内政史氏(仮名)は各サークルポストに入れてあった新総務募集のお知らせを「自主管理します。文句があるなら討論に応じます。」といって回収した。

4月30日、旧85総務委員長の野口恵子氏は「新85総務が存在しない以上、自分に総務委員長としての幹事会召集権があり、幹事会構成員が4・28幹事会の状況を総括しない限り幹事会を招集しない。」と文書で表明する。

そして5月、驚くべきことに旧85総務大島氏(仮名)を原告として、85総務不信任は不当であると岡山地裁に告訴したのである。それは学友会のことは学友会で決するという「自主管理・自主運営」の原則をかなぐり捨てたなりふり構わぬ巻き返し工作であった。

学友会裁判が始まったことに一般学生は「坂本派」に対してさらなる不信感を重ねた。裁判が始まれば、新総務となった者は法廷に立たなければならなくなる。そのプレッシャーによって新総務への候補者をなくすことが狙いではないかという見方もあった。

裁判というプレッシャーは一般学生に多大な恐怖感を与えた。裁判への恐怖は「坂本派」に対する恐怖となり、一般学生と「坂本派」の間には深い深い溝が形成されていったのである。

裏幹事会の出現と全学協議会の結成

一般学生と「坂本派」の間に形成された深い溝は、あるいびつなものを生み落としていた。その名を「裏幹事会」と言う。

裏幹事会とは、坂本派系サークルを除き秘密でひらかれる幹事会である。86年、「坂本派」によって始められた、学友会裁判下においても「坂本派」に総務を譲らないための学生側が考えた苦肉の策であった。裏幹事会において総務立候補者を決め、裏幹事会の出席者が公式の幹事会においてその候補者に票をいれる。その効果は絶大であった。裏幹事会体制がつづいた7年間は「坂本派」出身の総務は一度も出なかったのである。

88年には大学祭実行委員会でも学生以外は実行委員にさせないという規定が成立し、坂本氏・坂本派の排除がなされた。

90年、岡山大学体育会は法経学生会・生協準備会・学友会とともに大学祭主催組織全学協議会を結成した。これにより大学祭の学友会単独主催体制は崩壊し坂本派排除に成功した大学祭実行委員会の後方支援体制が確立された。

学友会における統一協会系勢力の台頭

92学友会総務委員長土山正孝氏(吟詩部)は裏幹事会は学友会の運営を不健康にするとしてその廃止を決めた。その代わり学生以外は総務になれないという規程を成立させ坂本派の総務就任を防ごうとした。しかし「坂本派」の的場よう子氏(仮名)が学籍の切れる寸前で法学部U部に編入学し、93学友会総務委員となる。それのみならず統一協会系サークル原理研究会の委員長である野々村俊樹氏(仮名)が現代思想研究会より立候補し学友会副総務委員長となったのである。

統一協会と学友会が関わりをもつようになったのは90年ごろからである。考古研事件の際、確認印の押印を拒否した85総務堀内政史氏(仮名)が統一協会に入信したのである。堀内氏は85総務不信任案可決で総務を追われた後も、現代思想研究会の幹事として学友会幹事会に出席しつづけた。87年には岡大の学籍を失い学生ではなくなったが幹事をつづけた。総務不信任後も大学祭実行委員をつづけ、93年まで大学祭シンポジウムなどの会議には必ず出席し大学祭に関わりつづけた。学籍のなくなった後は学友会事務代行として坂本氏の代わりに学友会事務室で仕事をしていた。その「坂本派」を構成する堀内政史氏に90年ごろから統一協会が急接近し、その年のうちに堀内氏を入信させたのである。入信後、堀内氏は統一協会系サークル岡山原理研究会の部員となっている。その堀内氏が招いたのか堀内氏が幹事を務める現代思想研究会に野々村氏以下数名の原理研部員を入部させたのである。原理研の部員が複数入部してきたことにより現思研の中にいた中核派の部員は休部状態となる。

そして93年、現代思想研究会より統一協会系サークル原理研のトップである野々村氏が立候補し学友会副委員長になったのである。

野々村氏が副委員長を務めていた94年1月17日、一つのサークルが学友会の公認サークルとなる「教授学生交流会」である。

それは統一協会の信者団体「岡山原理研究会」が信者獲得のため作った偽装サークルであった。野々村氏は「教授学生交流会」が統一協会・原理研の関係団体であるという事実を隠し学友会の公認サークルにさせたのである。こうして統一協会は徐々に岡山大学学友会に浸透していった。学友会の運営健全化のために行った裏幹事会の廃止により「坂本派」、統一協会・原理研の影響力が増大したことは非常に皮肉な結果であった。

岡山大学体育会、学友会正常化に乗り出す!!

1993年、学友会は何の疑いもなく原理研トップを副委員長にしてしまっただけでなく、統一協会・原理研の偽装サークル「教授学生交流会」を公認してしまった。また学友会が毎年発行していた新歓パンフレットには「岡山原理研究会」の案内が堂々と載っており、統一協会の関係団体であることは全く伏せられていた。また大学側も統一協会・原理研に対しては野放しであった。「岡大ジャーナル」など原理研の刊行物に記事まで載せてしまう教官もいた。「坂本派」が学友会総務に復権していることも大きな問題であった。

これらの問題に危機感を抱く団体があった。1986年、学友会より独立し独自の組織を形成していた岡山大学体育会である。

学友会の自浄能力は失われた。体育会はそう判断した。独立以来、学友会に対して内政不干渉の方針で望んできた体育会であったが、ことここに到ってはもはや見過ごすことはできないという思いを抱いていた。学内において学友会に対抗できる意思と組織力をもった団体は岡山大学体育会をおいて他にはなかった。

岡山大学体育会は学友会を正常な学生自治団体にもどす・「坂本派」系サークル、統一協会系サークルなど正常な活動の行われていないサークルを排除するという二つの方針を決め、戦略を練っていった。

1994年4月より体育会総務が「坂本派」・原理研以外の学友会総務と非公式に接触し、5月12日に2年ぶりの裏幹事会が行われることとなった。

5月12日、午後6時。学生会館2階の大会議室で2年ぶりの裏幹事会がとり行われた。94体育会総務委員長の田所拓氏(バスケ部)と体育会総務会計役の黒田敏裕氏(アーチェリー部)らが裏幹事会に出席し学友会側に3つの提案を行った。「94年度学友会予算案及び付随事項」「学友会・体育会共同宣言」「新公認規程」である。

「94年度学友会予算案および付随事項」の「付随事項」には坂本氏と学友会の雇用契約の破棄が明記されており、予算案が成立するとともに坂本氏が自動解雇されるという凄まじい内容であった。また「新公認規程」はその成立とともに「坂本派」系サークル・統一協会系サークルがすべて消滅するという代物であった。さらに「学友会・体育会共同宣言」には将来的に学友会と体育会で一つの組織を結成するという内容もあり、後の校友会結成を思わせる内容であった。

この体育会より出された3つの提案に裏幹事会は紛糾する。93学友会総務委員長の浅野優氏(柔道部)は最も強い反対意見を述べ、後の94学友会総務となる小林氏(文芸ペンクラブ幹事)も浅野氏の意見に同調した。浅野氏らは「坂本派」や坂本氏は学友会にとって必要悪であり排除しては学友会はなりたたなくなると主張した。後の94学友会総務委員長となる田中丸睦氏も慎重論を述べた。田中丸氏の意見は坂本氏・坂本派排除への反対でなく、その成功率についてであった。「多数のサークルが勇気ある行動を取らず保留票や棄権票を投じ議案が成立しない可能性がある。またそんな可能性があるからこそ保留票・棄権票が多くなる。」という考え方であった。それに対し、93学友会総務の高峰氏(放送文化部)、後の94学友会総務となる松下氏(グリークラブ)は体育会の提案に積極的賛成意見を述べた。

―そして決が取られた―

過半数のサークルが体育会提案を支持したのである。史上初めて学友会幹事の過半数が坂本氏の解雇を決断した瞬間であった。

93学友会総務委員長の浅野氏はそれでも慎重論を述べたが、多勢に従うということになった。しかし次回の学友会幹事会においてやるのではなく次々回幹事会においてやりたいとの意思が表明された。体育会側も了承し次々回学友会幹事会の前にもう一度

裏幹事会を開き、各部の部内において意思統一をした後、改めて決めるということにした。だがこの後事態は以外な方向に動きだしていく。

坂本氏解雇を断念!!

1994年5月23日、体育会総務黒田敏裕氏と学友会総務高峰正行氏が体育10部会の会議に呼ばれた。体育10部会とは体育会独立後も学友会に残った体育系10サークルの総称である。体育10部会は「学友会体育会共同宣言」によりすべて体育会に移行することとなっていた。そのため最も今回の事体に深い関心を抱いていた。体育10部会はしばしば「裏々幹事会」と呼ばれる10部会のみの裏幹事会を開き独自に話し合っていた。そしてその話し合いに今回の事体を積極的に進める黒田氏、高峰氏を呼んだのである。

山岳部が会議の口火を切った。「今回の動きは大学当局・学生部の陰謀である。」という主旨の発言がなされた。競技ダンス部は「なぜ、今回のように非常に急いで事を進めるのか。もっとじっくり話し合って進めるべきである。」という主旨の発言をした。

同じ体育系ということもあり体育10部会は今回の事体に最も強く賛成してくれるはずである体育会にはそういう期待があった。しかし体育10部会は賛成も反対もせず棄権するという意志が表明された。体育会の戦略が予想外のところから崩れはじめていた。

ここにおいて他の学友会サークルもOB会の反対などから保留・棄権を申し出てくるところが現れ始めた。坂本氏解雇に暗雲がたちこみ始めていた。

5月27日、体育会総務黒田氏と学友会の浅野氏、高峰氏の間で三者会談が開かれた。そして現下の状況をかんあみ坂本氏解雇は断念するという方針が決定された。次回幹事会では「共同宣言」、「新公認規程」のみ話し合うことになった。

6月3日、裏幹事会が開かれる。学友会総務委員長の浅野氏より坂本氏解雇は今回行わない旨が発表される。だが「新公認規程」「共同宣言」のみを公式の幹事会に出すという方針に山岳部が異論を述べた。「坂本氏解雇と『新公認規程』による坂本派排除は同時にやらなければ効果はない。坂本氏解雇をやるときに「新公認規程」は出すべきで、坂本氏解雇をやらないのなら『新公認規程』もやめるべきである。」この意見に多勢が従い、「新公認規程」も出されないことになった。「学友会体育会共同宣言」についても議論は白熱した。「共同宣言」については浅野氏も積極的支持を表明した。多数決により、出すか出さぬか決めることになり決が取られた。賛成17、反対9、保留・棄権6で「共同宣言」のみ公式の学友会幹事会に出されることとなった。

共同宣言の前に立ち塞がる「坂本派」

裏幹事会の後、浅野氏らは学友会のことは学友会で決めるので体育会の裏幹事会参加は遠慮願いたいと体育会側に要請し体育会側は了承した。浅野氏は共同宣言の成立だけは体育会側に約束した。

そして共同宣言が学友会総務委員会に出される。しかしその宣言に対し坂本氏、片岡氏(仮名)、的場氏(仮名)らが次々と反対意見を述べ、坂本氏の提案によって大幅な変更を受け、「共同宣言」は変更の過程でほとんど骨抜きにされた。そして大幅に変更された案が学友会幹事会に上程された。しかしその大幅に変更を受けた案さえも、「坂本派」の餌食となった。考古研の保利氏(仮名)、現思研の堀内氏(仮名)、エスペラントの的場氏(仮名)らが次から次へと質問を繰り返し、終わることのない質問攻勢の中で、浅野氏は採決をとるのを断念する。

次に開かれた学友会総務委員会においては的場氏が「幹事会は全会一致で採決をとることを決めてはじめて多数決の採決をとることができる。誰か1人でも採決を取ることに異論を唱えれば、採決をとることはできない。私はこの宣言を採決にかけることには賛成できない。」という主旨の発言を行う。この全会一致の論理により浅野氏は共同宣言の幹事会提出を断念し93学友会総務委員長を引退する。

この瞬間、体育会が提案した「94年度学友会予算案」「新公認規程」「学友会体育会共同宣言」の三案は無に帰したのである。

岡山大学文化会結成騒動「文化会か坂本か!!」

1994年7月、94年度学友会総務委員会が発足する。体育会は94学友会新総務に対し、「新公認規程」の成立を要求したが、学友会総務委員長田中丸睦氏はまだ動く時期ではないと体育会に返答した。1994年10月、学友会の一部総務の主催で反原理・反坂本を進める非公式会議が開かれ、体育会も代表を派遣し参加した。93学友会総務高峰氏の顔もあったが集まったサークルは数サークルに過ぎなかった。ここにおいて反原理・反坂本の動きは完全に手詰まり状態となる。

1995年1月21日、一つのビラがBOX中にバラ撒かれた。「文化会か坂本か!!」と書かれたそのビラには坂本氏の103号教室事件の裁判が坂本氏敗訴で終結したこと、大学側が坂本氏が学友会に存在していることを憂慮していることなどが書かれてあり、坂本氏の人件費の上昇が学友会の予算を圧迫しているなどの批判が書かれていた。しかし最も注目すべき点はビラの最後に書かれた「自由なサークル活動、楽しいサークル活動を続けたいなら、坂本氏と運命を供にするのではなく彼らに辞めてもらうか、『文化会』の結成に参加すべきだ」と書かれていることである。「文化会」という名がはじめて登場し、学友会を離脱すべきだとの内容も初めてでてきた考え方であった。「文化会か坂本か!!」このビラを起点として学友会末期最大の事件である「文化会結成騒動」が始まる。

1995年1月24日、学友会幹事会において考古研の保利氏が「『文化会』なるものが発足するとなれば、学友会にとっても重要な問題になる。」として総務委員会に対し調査を要求する。その数日後、各サークルポストに「我々は文化会結成準備会である。」

という書き出しで始まる文化会への勧誘の手紙が配布される。そこには小坂学長を中心とする大学側が学友会をつぶす計画を進めている。学生部は大幅な人事異動を経て学長に忠実な学生部になりつつあるなどの内容が書かれており、このままでは学友会は確実につぶされるとされていた。そして大学の手によって学友会がつぶされる前に大学主導でなく、学生主導のサークル連合組織「岡山大学文化会」を結成しようと訴えていた。93学友会総務の一部や学友会サークルの元部長が呼びかけ人となっているこの手紙に学友会各サークルの心は揺り動かされる。この手紙は我々(文化会結成準備会)と行動を共にするか、学友会に残り坂本氏らと運命を共にするかどちらか二者択一せよと迫っていた。これにより各サークルは保留・棄権などによって態度を不明確にし問題から逃げるという手段は使えなくなったのである。各サークルは自分達の存在を守るため坂本問題や学友会・文化会について真剣に考えなければならなくなったのである。

1月29日、反坂本派サークルと呼ばれた地域問題研究会出身の元86総務委員井吹正義氏(仮名)がひとつのビラを出した。

そこには「現代思想研究会」「考古研究会」「エスペラント部」は「坂本派」が名前を出しあっていて、部本来の活動をしていない幽霊サークルだ!!との批判があり、坂本氏ら嘱託員の人件費が学友会予算を圧迫しているとも書かれていた。

1月30日、坂本氏により井吹氏の出したビラはまったくのデマであり、不当に学友会サークルを動揺させるものだというビラが出される。その直後、「すっぱぬき驚きスクープ」という主体不明の怪文書がBOX中に巻かれる。その内容は、井吹氏と学生グループが文化会結成のため多数派工作を展開しているというものだった。2月に入ると、各サークルポストに「学友会の現状を憂慮する有志の会」という名のビラが配布される。ビラは書類封筒に入れられており中には、86年当時の考古研事件に関する資料や坂本氏を批判するビラが同封されていた。この「学友会の現状を憂慮する有志の会」のビラには、坂本派は自己防衛のために中核派や原理研と結びついているといった内容が書かれていた。

現思研、考古研、エスペラントは次々とそれらはデマである、そんな事実はないといった内容のビラを出して応戦した。BOXは坂本派と反坂本派の情報戦の戦場となっていった。

こうした泥沼の情報戦の中、学友会総務委員会は諸問題を解決するためとして「幹事は岡大在学生のみとする」「学生3名以上いないサークル、顧問教官のいないサークルは援助金を停止し、3年をめどに公認を取り消す」というかつて体育会が出した「新公認規程」に近い議案を作成する。学友会総務らは坂本氏らに知らせず「裏総務委員会」を開き、この議案に関する意見調整を行う。

そして公式の総務委員会では坂本氏にひとことも言わせないまま即座に決定したのである。

2月21日学友会幹事会では94学友会総務委員会と坂本派サークルの激突は必至の情勢となった。

そして予期されたように1995年2月21日学友会幹事会は大荒れとなったのである。

2月21日学友会幹事会。坂本派側は坂本氏、保利氏、的場氏、堀内氏が出席し反坂本派側は井吹正義氏が出席していた。総務委員会が出した案に、考古研、現思研、エスペラントがそれぞれ独自案を出し対抗した。総務が新公認規程・幹事規程案の説明を終えると考古研幹事の保利氏がまず質問の口火を切った。

保利氏(考古研幹事) 総務は「文化会」を作らせないために、こういった案を出して来たと説明されましたが、この案はむしろ「文化会」を作りやすくするものではありませんか。大学が今期で「文化会」を作くろうとすれば、学生部が顧問教官をやめさせるように根回しをするなどということが考えられる。危険ではないか。

小林氏(文ペン総務) 総務は学生部がそんなことはしないと信じている。そもそもこの規程をはっきりさせることで「文化会」の動きが阻止できる。

保利氏(考古研幹事) 昔、考古研は顧問がいたが、学生部がチャチャを入れてやめさせられた。そんなことが実際あった。こういうサークルがあることも念頭に置いて欲しい。

松下氏(グリー総務) 岡大学則によると責任代表者3名と顧問が必要とある。学友会に顧問がいないサークルがあるにはおかしい。岡大公認でないサークルがあっていいのか。

保利氏(考古研幹事) 顧問を探さんつもりはないが、外圧でやめさせられた場合の保証規程が欲しい。

田中丸氏(吟詩・総務委員長) 3年間の猶予規程がある。学生部が目をつけるのは個人的なもの、そういう人達がいなくなれば外圧はなくなる。 

井吹氏(オブザーバー) 公認サークルで学生3名以上で顧問がいるのは当たり前。3年間の猶予規程など必要ない4月幹事会で援助金停止、BOX排除を行うべき。多くの人は8年前何が起こったか知っている。外圧があったのではない。40名以上のサークルがいっきに1名か3名に減ってしまった現実があるからだ。保利、的場はそれを正常だと思っている。学生じゃない彼らが、学友会にいて「あーだ、こーだ」言うのがおかしい。今こそ変えなければならない。そうではないと「文化会」がベストとは言わないがいろいろな動きが出て来るだろう。私は修正案を提案する。「4月幹事会を持って条件を満たさないサークルは公認を取り消す。」

考古研、エスペラントが同好会としてそこらで活動するのはいいが、学友会サークルならこれらの条件がそろって当たり前。

保利氏(考古研幹事) 井吹さんが好き勝手くっちゃめっていますが、僕のしる限り事実を伝えた情報なんかない。井吹氏のいっていることには無茶苦茶だ。彼の頭はどうなっているのか。考古研問題は私を抜きにして現実はつかめない。井吹氏の言っていることには腹がたつ。

的場氏(エスペ幹事) 私がエスペにいたせいで、潰れたとか部がなくなったとか言われるのは非常に心外。ほとんど人権侵害である。そういう発言を公の場で行うのはやめていただきたい。それから顧問のことですが、プレート問題などBOX問題は今棚上げになっているがいつまた学生部がそれを持ち出して来るか分からない。プレートを取り外さないサークルの顧問をやめさせるなどということもありうる。顧問の規程は危ないのではないか。

松下氏(グリー総務) それは極端な話である。学生部の攻撃に対してはそれはそれで対抗すればいい。

坂本氏(事務嘱託)  学生3名以上は学生の力で何とかなるが、顧問は学生の力ではどうにもならない所がある。顧問の規程を自動的なものにするのは学生にとって自縛的なものではないか。

堀内氏(現思研幹事) 学友会の会則には顧問に部長の名前を使えるとある。よって顧問は教官でなくてもいいと言える。会則では顧問を必要条件としていないが総務は学則にそうあるからそうすると言っている。総務委員会は学友会会則より岡大学則を上とみなすのか。

松下氏(グリー総務) そうです。

堀内氏(現思研幹事) 学則にはBOX使用は8時半から22時までというものもある。学則を上とみなすと24時間BOX使用は不可能になりますよ。

松下氏(グリー総務) 学則を上に見ると決め付けるのではなく、参考にするというまでの話です。BOX規程を参考にしようとするサークルなんてないでしょ。

井吹氏(オブザーバー)論点は明らかです。そろそろ採決を取りましょう。

的場氏(エスペ幹事) 聞いてないことがあるんですが。学生3名が他サークルと兼ねられないというのはどういう理由からか。

松下氏(グリー総務) 兼ねられないというのは、AというサークルとBというサークルが中身がいっしょではいけないでしょということです。

的場氏(エスペ幹事) それは構成が似ているだけの話であってサークル活動が同じではない。似ていることでどういう問題があるのか聞きたい。

田中丸氏(吟詩総務委員長)援助金の問題とかあるでしょ。

的場氏(エスペ幹事) 援助金はサークルに対してのもので個人のものではない。

松下氏(グリー総務) そうは言ってもいろんなうわさが出てくるでしょ。そういったうわさを出さないためにもこの規程が必要な訳です。

小林氏(文ペン総務) こう言っちゃなんですが、部の両立というのは難しいと思いますから、部の活動を一生懸命やっている人が他の部でも熱心にやっているのは普通では思えない。じゃあなぜこんなことになっているのかというと部の活動をおざなりにして援助金だけを吸い取って私服を肥やしているのではないかと思う訳です。そんな印象を持たれると学友会自体の印象もすごく悪くなる。これは学友会の対外的印象の問題なんですよ。

堀内氏(現思研幹事) 幹事について聞きたいのですが。幹事を岡大の学生に限定するのはサークル自治権への介入ではないですか。

松下氏(グリー総務) わざわざ岡大生以外の人にしなくていいでしょ。

堀内氏(現思研幹事) 岡大生以外でも幹事をやりたい、岡大生以外でも幹事をやりたい、岡大生以外でも幹事をやりたい、岡大学友会に献身したいと思う人はいる。幹事の選出はサークルの自主決定権に任すべき。岡大生以外を幹事にしてはいけないと会則にはない。

松下氏(グリー総務) よいとも書いてませんよ。

的場氏(エスペ幹事) これまでの慣行では学生以外でもよかった。それを変え、サークルの自治権に制限を加えるものと解釈してよいのか。

松下氏(グリー総務) けっこうです。

4時間に及んだ審議の後、採決が取られ、圧倒的多数の賛成を得て総務案が可決される。この瞬間、保利氏、堀内氏は幹事の資格を失ったのである。彼らはこれから学生3名以上と顧問を発見しなければならなくなったのである。坂本派サークルにとっては大打撃であった。

学友会の末期においてこのような改革運動が一定の成果を納めたのにも関わらず、この後、学友会は急速に解体にむかう。それはこの文化会騒動時に植え付けられた坂本派にたいする悪印象が影響したと考えられる。

体育会の坂本派・原理研(統一協会系サークル)分断工作

文化会騒動の結果、学友会において「学生3名以上がいないサークルは援助金を停止し、3年をめどに公認を取り消す。」という規程が成立する。坂本派系サークルが学友会における勢力を維持するには学生を入部させるしかなかった。しかし正常な活動をおこなっていない彼らのサークルに一般学生が入部するというにはあまり考えられないことであった。かつて坂本派を構成する有力な左翼団体として中核派などがあったが、この中核派も衰え、正規の学生はほとんどいなかった。

だがここに唯一、例外が存在する。統一協会系サークル・原理研究会である。かれらはその構成員を現代思想研究会に入部させ、彼らのリーダーである野々村俊樹氏(仮名)学友会副委員長にさせた。統一協会系勢力のみが坂本派系サークルに学生を提供できる力をもっていた。  

統一協会系勢力の影響力増大を好まなかった体育会は坂本派と原理研の分断の可能性を模索した。その結果、坂本派と原理研の掛け橋となっている堀内氏(仮名)を統一協会から脱会させることで坂本派と原理研を分断させようとした。そして体育会総務黒田氏が堀内氏に頻繁に接触した。堀内氏はしだいに統一協会の批判本を読むようにもなっていった。また体育会が原理研の勧誘手法等の批判を新歓パンフに載せることを了承するほどになっていった。堀内氏のマインドコントロールは徐々に弱まっていったと言えるかもしれない。そして1995年3月末、反原理系教官の協力のもと脱会信者と堀内氏の対面がセッティングされた。これが成功すれば堀内氏の統一協会脱会はあるいは成功していたかもしれない。

しかし脱会信者との対面の3日前、異変が起こる。堀内氏が行方不明となったのである。堀内氏の同志である坂本派の人達でさえ堀内氏の行方をつかむことはできなかった。数日後、体育会総務の黒田氏のもとへ一度だけ堀内氏の連絡があった。堀内氏は「東京にいる。いまは帰れない。」という言葉を残し、二度とその姿を現すことはなかったのである。反原理教官は、堀内氏のマインドコントロールが弱まっていることを知った統一協会中央が堀内氏を強力な再洗脳にかけているという見方をしめした。堀内氏脱会工作は今一歩のところで失敗した。だがその後、この工作が体育会を危機的状況に直面させる結果となる。

中核派!!体育会幹事会に乗り込む!!体育会裁判の危機

4月6日、体育会総務黒田氏の電話が鳴る。考古研の保利氏であった。保利氏は怒りを露に黒田氏を怒鳴りつけた。それは学友会と体育会が共同で出した、新歓パンフに原理研究会の勧誘手法の批判記事内容についてであった。その批判記事に統一協会系サークルの一つとして現代思想研究会の名があげられていることであった。保利氏は自分も現代思想研究会の部員の一員であり、自分が一員である以上、現代思想研究会は統一協会系サークルでないと主張した。そしてこの記事はデマであると主張し、現代思想研究会の名をスミ塗りすることを要求した。黒田氏は保利氏は学生ではなく保利氏の主張はイチャモン以外の何ものでもないと主張しスミ塗りなどは断じてできないとしてその要求をつっぱねた。数十分後、坂本氏が黒田氏の所へ同様主旨の電話をかけたが黒田氏は拒否の姿勢は崩さなかった。坂本氏はこちらにも考えがあるとして電話を切る。数十分後、新歓パンフの編集者であるNUTSの日浦知子氏より電話がある。日浦氏は坂本氏らがすでにスミ塗り作業を開始しており、黒田氏がスミ塗りを認めなければ新歓パンフの配布を実力で阻止するとしていることを告げた。黒田氏は日浦氏の説得を受け、スミ塗りを了承する。しかし事件はこれだけでは終わらなっかった。坂本派のなかでも最もベールに包まれていた存在である、中核派が「裁判」という坂本派の伝家の宝刀を振りかざしながらはじめて体育会の前に登場するのである。

4月末、体育会総務あてに1通の内容証明郵便が送られる。それは体育会が現思研の名誉を毀損した、3日以内に千五百部の謝罪ビラを体育会と黒田氏の連名で全学に配布しなければ体育会を裁判に訴えるという内容であった。差出人は現代思想研究会幹事永山泰司(仮名)とされていた。永山泰司。過激なテロ活動で知られる中核派。その構成員である岡大生の名がそこにあった。

4月25日、体育会幹事会。新総務を決めるこの幹事会に中核派・永山泰司氏が乗り込んでくる。永山氏は体育会幹事会の謝罪を強く要求し受け入れらなければ裁判を起こす主張した。しかし体育会幹事らは現代思想研究会には多数の原理研部員が存在することは事実であり、謝罪の必要はないとして真っ向から反論した。激論は3時間におよび体育会幹事会は一歩も引くことなく議論は平行線のまま終わった。このままではおよそ不毛な裁判闘争に体育会が巻き込まれてしまう状況となっていった。

前94体育会総務奥永和之氏は裁判をさける別の方策を模索し、中核派・永山氏と接触した。永山氏は幹事会に出席したおりの一般幹事の永山氏への反論のすさまじさというものをはじめてみた。永山氏はつねにお通夜的雰囲気で一般幹事がほとんど発言しない学友会幹事会との違いに驚きと感動を覚えていたようであった。永山氏は確かに現代思想研究会にも非はあったことを認め、統一協会問題に真剣に取り組んでいくことを体育会奥永氏につげた。しかし現代思想研究会の名を立てるためにもなんらかの形の謝罪文が欲しいともいった。奥永氏は体育会は謝罪しないがすでに引退した前94総務が謝罪文を出すという妥協案を永山氏つげた。しかしその謝罪文の裏にはあらためて原理研の勧誘手法の批判と新入生にたいする原理研の注意喚起を載せることを永山氏に認めさせた。この後、永山氏は約束どおり統一協会問題を考える公開討論会などを企画し、部内の原理研部員に討論を迫った。しかし原理研究会は討論に参加せず、現代思想研究会を脱退していったのである。以後、統一協会系勢力は坂本氏らとは行動をしなくなる。体育会が当初目的としていた坂本派と原理研の分断が意外な形で実を結んだのである。

大学・学生部の新生と樋口学生部次長の登場

94年、海軍兵学校出身の小坂二度見学長が選出される。小坂学長は長年の懸案問題であった生協設立問題でもリーダーシップを発揮し生協設立を成功させた。改革意識の強い学長だったといえる。その小坂学長が学園紛争以来の問題である学友会問題に挑戦しようとしていた。そして1人の人物が学生部事務方トップである学生部次長の席につく。樋口俊郎。商社から文部省に入り、北大、東大の文部事務官をつとめた異色のキャリアの持ち主であった。樋口次長は小坂学長の支持のもと学友会への攻勢準備を整え始める。樋口次長は主計課より引き抜いた、河田氏を学生課長補佐にすえ自らの参謀各とし戦略を練らせた。また種々の情報を多方面から収集した。

学生においては体育会を率い坂本派と闘いつづけた黒田氏、学友会において新公認規程成立などで坂本氏らと対決した松下氏に着目し学生部次長室によび自らかれらに坂本氏排除の可能性、戦略などを問いた。

黒田氏・松下氏は大学が動き、なおかつ学生が協力すれば坂本派排除はできると主張した。しかし学生部がBOX24時間使用や1サークル1BOXに介入しないという確約がなければ我々は動けないとした。樋口次長は1サークル・1BOX及び24時間に使用は学生部としては絶対に介入しないとして協力を要請する。

学生部は大学側を、松下氏らは学友会内の公認団体をその戦略に導いていった。

そして松下氏ら一部総務を中心として裏幹事会が開き、大部分のサークルが松下氏らと行動を共にすることを確約した。そして学生部は岡山大学評議会において1つの決定を出させることに成功したのである。1995年6月21日、ついに歴史が音をたてて動き出す。

学友会解散、校友会の設立

1995年6月21日、評議会において歴史的重大決定がなされた。そしてその内容は翌日「お知らせ」として全学に公開された。

「岡山大学校友会の設立が認められました。学友会総務委員会・幹事会は機能を停止し整理期間を経て解散となります。」

それは坂本氏やその同志達、また学友会所属サークル全ての運命を決定づけるものであった。6月23日、坂本氏により大学のやり方を批判し,学友会サークルが校友会に参加することのないようにとのビラが配布された。しかしこのときすでに、ごく少数のサークルを除いてほとんどのサークルが校友会への加盟承諾書を大学側に提出していたのである。坂本派と通じている恐れがあるサークル以外はすべて事前に裏幹事会で校友会について知らされていたのである。

1994年5月、体育会が主催した学友会の裏幹事会においては坂本氏解雇に議論は紛糾し、結局、坂本氏解雇は見送られることになった。しかし1年後の1995年6月の裏幹事会では坂本氏を間接的に排除するため学友会を解散し新組織を結成するという案に全く異論や反論が出されることなく決定されたのである。文化会騒動時におけるビラや幹事規定・公認規定の成立への頑強な抵抗をしめした坂本派に対する一般学生の悪印象が強く影響したと言える。

そうした一般学生の坂本氏への大学当局の長年における坂本氏追放の願いが結びついたとき、40年以上の伝統をもつ学友会の解散はいとも簡単に決定したのである。

7月1日にはエスペラント部幹事で嘱託事務代行である的場よう子氏(仮名)らが中心となって「学友会解散無効確認」の署名運動が開始された。彼らはこの時、身を持って一般学生と学友会との大きな距離というものを肌で感じることになった。一般学生は学友会に対しあまりに無知で無関心であり、署名活動の成果は思うようにあがらなかったのである。7月5日、的場氏は岡山大学を相手取り「学友会解散無効確認」を岡山地裁に提訴する。そんな坂本氏らの動きとは関係なく学友会の解体作業は着々と進んでいた。的場氏が大学を告訴した日、最後まで校友会参加に抵抗していた映画研究部がついに校友会の加盟を決めたのである。

7月7日、学友会総務委員会の日であったが総務委員は誰一人姿を現さなかった。そして7月10日、学友会幹事会には坂本派系サークルを含め、わずか6サークルのみの出席しかなかった。その閑散とした幹事会が学友会最後の幹事会になったのである。

1995年7月12日ついに評議会は岡山大学学友会の正式解散を決定する。1949年の開学と同じ年に結成され岡大とともに歩み、幾多のドラマや歴史を生み出してきた、岡大最大の自治組織はその公的生命を終えたのである。

学友会事務室の攻防

1995年7月13日、学友会が解散したことを受けて「7月14日10時30分をもって新BOX一階の学友会事務室を閉鎖する。」とのお知らせが全学に掲示された。それを受け、学友会事務室では明日おこるであろう事務室攻防戦に向けての準備がなされた。しかし、その準備をする坂本氏及び坂本派の顔にはとうてい事務室を守りきることはできないだろうといったあきらめが浮かんでいた。事務室の鍵を付け替え、資料等をダンボールに積め持ち出しドア周辺にバリケードを築くといった作業が黙々と続けられた。

「学友会は公共性が大事だから事務室のリソグラフ(印刷機)は使えるようにしとかなあかんなあ。」保利氏はつぶやいた。この後におよんでそうした所を気にかける妙な生真面目さこそ坂本派の特徴だろうか。

「大学はわしを排除するのに26年もかかった。」坂本氏はため息まじりにつぶやいた。「26年・・・」なんとも思い時の重みであった。大学紛争より一貫して権力に挑みつづけた坂本氏の最後の闘いの時が近づいていた。坂本氏の周りには、保利氏・片岡氏・野坂氏(仮名)そして中核派・永山氏(仮名)ら坂本派の姿があった。

坂本氏らが学友会の中心にいつづけたことは、坂本氏の人望と氏が掲げた強烈な理想主義による所が大きかったであろう。しかし、もはや氏の掲げた強烈な理想は時代が受け入れる所のものではなくなっていた。そして時代の流れが坂本派をここまで追いつめてしまったのである。

常に議論により他を圧倒しようとしていた彼らは今まさに実力で排除されようとしていたのである。

学生部職員110名、新BOXに突入!!

1995年、7月14日午前9時、岡山大学の腕章をつけた大学・学生部職員が続々と新BOX(サークル棟)前に終結しはじめた。駐輪場の自転車が移動され立ち入り禁止のロープが張られる。午前10時には各学部学部長が乗った各大型バスが到着する。

学生部職員動員数、約110名。それに対し学友会事務室を防衛しようとする坂本派の数はわずか7名でしかなかった。

午前10時30分、総勢110名の学生部職員が一勢に新BOXへ突入していった。

BOX・プレート問題で学生部と学友会が激しく対立していた1984年には新BOX内に侵入しようとした学生部職員の前に百名以上の学生が立ち塞がりその侵入を防いだという事件があった。その日以来、学生部職員は学友会の許可を得なければ、新BOX内に入れないようになった。以来BOXは学生の治外法権地帯のようになっていた。しかし1995年7月14日、新BOXに突入する学生部職員を止めようとした一般学生は一人もいなかった。それは確かにひとつの時代の終焉を象徴していた。

学友会事務室に陣取った坂本氏らは最後の輝きを放ったといえようか。事務室のドアの前には、考古研の保利氏、そして中核派の永山泰司氏が立ち塞がっていた。最後まで学友会に殉じていったのも彼らかもしれない。彼らはドアの前に立ち塞がり声高に大学・学生部を批判する。エスペ・的場氏や中核派の清川氏(仮名)ら女性陣も甲高い声で大学・学生部を非難していた。

マスコミ新聞各社もこの岡大での騒ぎを記事にしようとやってきていた。坂本氏側の弁護士も到着していた。この弁護士とマスコミの存在がBOX突入をなしとげながらも学友会事務室へ強行突入するための障害となったのである。正午になっても大学側は学友会事務室への強行突入を行えなかった。

樋口学生部次長、石井課長、河田課長補佐そして伊沢学生部次長らが事務室前で坂本氏側の弁護士と粘りづよく折衝を行っていたが、弁護士は大学側と坂本氏との間を行ったり来たりするだけで事体は一向に動かず、坂本氏と大学側のにらみあいはこう着状態に入っていった。

中核派が学外より援軍を連れて来て大規模な暴力沙汰になるかもしれないと学生部は、警察へも手を回し、そうした事体になれば暴力事件として彼らを逮捕してしまう体制も整えていた。しかし中核派の援軍は来ず、坂本氏側も一切暴力には訴えなかったので警察権力がこの問題に介入するという最悪の事体にはいたらなかった。

「リソグラフを使いたい方は事務室の窓側に来て下さい。」と時おり放送で坂本氏の声が流れる。「学友会は公共性だから」と保利氏が言っていたのを忠実に実行しているのであろうか。にらみ合いは夕方になっても続いていた。午後5時、ついに大学側は坂本氏らの排除と事務室閉鎖をあきらめ、事務室の閉鎖をあきらめ、事務室閉鎖の通告と、中にいる者達は不法占拠者であるとの宣言をした後、引き上げていった。

十中八九、坂本氏らは排除されるものと思われていたが事体は意外にも坂本氏らが事務室を守り切るという結果に終った。

大学と坂本氏らがにらみ合っていた時間は実に7時間にも及んだ。結局大学側はたった7人の坂本派の前に敗退したのである。

事務室は開放され、マスコミが坂本氏を取り囲んだ。さながらヒーローインタビューであった。翌日の新聞には各社ともこの事件に関する記事が踊っていた。そして7月15日には事務室は平常通り運営されたのである。

学友会事務室の最期

一時は大学側による閉鎖を免れた学友会事務室にも最期の時がやって来た。7月16日、まだ夜も明やらぬ午前4時30分、新BOX前に約80名もの学生部職員が現れた。一晩中、学友会事務室で番をしていた坂本派のひとりが事務室のドアをノックする音に坂本氏が来たのかとドアを開けた。その瞬間、数十人の学生部職員がなだれ込んで来た。それが学友会事務室の最期であった。

その日の内に事務室のドアが溶接され窓には鉄格子が取り付けられ外部からの事務室への侵入は完全に不可能になった。それのみならず、その日から事務室のドアの前には常時3名以上の学生部職員がイスを出して座りこみ24時間の監視体制が取られた。数日後、見張りは民間の警備会社が行うようになる。新BOX内にガードマンが常時いる状況は実に異様な光景であった。この間、大学側と学生の衝突というのは全くなかった。学生はみなクールな目で見ていた。これは坂本派と大学側の闘いであり学生は関係ない、そんな見方が多勢を占めていた。坂本氏らはエスペラント部の部室であった269号室を学友会臨時事務室とする。そして現代思想研究会とエスペラント部で学友会臨時代表機関なるものを設立した。しかし後に廃部となっていた人形劇部の部室とともに顧問教官のいなかったエスペラント部と考古学研究部の部室が閉鎖される。

1995年9月4日、坂本氏らは学外の法界院駅近くの喫茶店が入っていた所を借り、そこに「学友会臨時事務室」を開室した。

10月3日、坂本派の最期の学内拠点であった現代思想研究会の部室も顧問教官が辞意を表明したことにより閉鎖される。これにより「永続する学園紛争の拠点」はすべて陥落し岡大における学友会の歴史に完全にピリオドが打たれたのである。

校友会新体制確立に向けて

1995年7月12日、45年の長き渡り存在した岡山大学学友会がついに消滅した。そして岡山大学校友会が設立された。この学友会解散・校友会設立の嵐が、意外な形で岡山大学体育会を巻き込んでいく。

学友会解散・校友会成立に体育会を巻き込むという考え方は、学友会解散・校友会成立過程で大学学生部に加担した旧学友会総務から出たものであった。学友会解散で大学側に敗れた坂本氏らは校友会執行部を裁判に訴えることをビラにおいてほのめかしていた。それを極度に恐れていたのが校友会執行部入りを予定していた松下剛士氏である。苦慮した松下氏が考えたのが体育会を校友会に参加させることであった。松下氏には体育会総務をそのまま校友会の執行部とし自分達が裁判に訴えられないための盾として利用しようという考えがあった。そして大学学生部にその話を持ちかけたのである。大学側は学友会解散・校友会設立過程で松下氏らの力を借りた以上、その申し出を拒むことはできなかった。むしろ大学側も教官周辺の世論が学生部に対し懐疑的になっているため体育会の校友会加入で全学生が校友会に賛同しているというポーズをつくりたかったいという思惑があった。かくして大学学生部の事情と旧学友会総務の事情により体育会のあずかり知らないところで体育会消滅・校友会一本化の伏線が張られたのである。

1995年6月下旬、94年度体育会総務黒田氏が学生部次長室に呼ばれる。樋口学生部次長は黒田氏に体育会の校友会参加への協力を要請した。黒田氏は現在のままの校友会では体育会参加は認められないという見方を示した。新たに文化系サークルを統合する「岡山大学文化会」を結成し、現在の「岡山大学体育会」とその他の分局組織(医学部校友会、歯学部校友会、第二部校友会)が連合する形で校友会を形成し直す、ならば体育会の校友会参加は認められるというという考えを示した。樋口次長はその方向で新たな会則づくりを進めていくとし、黒田氏に学生部厚生課の三宅課長補佐とともに校友会新会則の原案作成の協力を要請した。黒田氏は要請を了承し、三宅氏とともに新会則案づくりに着手した。

そして新たな岡山大学校友会会則案がつくられる。会則は会費のみを岡山大学校友会として集めその運用は「岡山大学体育会」と「岡山大学文化会」が分けて行い、相方の総務委員会の連絡調整機関を設け、校友会の議決機関として体育会・文化会の幹事で構成する合同の幹事会(幹事総会)が規定されていた。

この会則は大学側・体育会側ともに納得できる案であろうとしてつくられたが、その後の異変によりこの会則は幻の会則となる。そして学生部と体育会は校友会の組織形態をめぐり対立し、その後全面対決に突入していくことになる。

体育会VS学生部!!全面対決へ

学生部は突如、体育会総務を呼び出し、校友会への参加を要請した。その際、黒田氏と三宅氏の間で作られた会則案は提示されなかった。不信に思った黒田氏は学生部次長室に事情を聴きに行った。樋口次長の態度は数日前、会則案作成の協力を要請したときとうって変わって高圧的なものとなっていた。

樋口次長 「あの会則は学長や事務局長が認めんかった。組織図がいかん。校友会は一本化せんとあかん。」

黒田氏  「次長は会則の中身は読まれたのですか。」

樋口次長 「読んどらんが、組織図がいかん。」

黒田氏  「あの会則でなければどうやって体育会が校友会に参加するのですか。」

樋口次長 「今ある、校友会会則だ。やっぱりあれはできたばかりだし変えることはできんと学長が言っとる。」

黒田氏  「じゃあ、体育会は消滅してしまうじゃないですか。それじゃ体育会は校友会に参加しませんよ。」

樋口次長 「体育会が校友会に参加せんのだったら、ボート部の艇庫も建てんし、体育会の会費も集めん!!」

黒田氏  「圧力ですか・・・。」

樋口次長 「とにかく、文句を言わず、校友会に入れ。」

黒田氏  「体育会が校友会に参加するかしないかは、体育会幹事会が決めることです。」

樋口次長 「君が説得しろ。」

黒田氏  「冗談じゃない!!今後一切学生部には協力しない。体育会幹事会ではおそらく校友会参加は決まらんでしょう。」

樋口次長 「そうなれば経理面で干あがらせるまでだ。学生自治なんかないんだ。ここは大学だ。自治がやりたきゃ、山奥でもどこでも好きなとこでやれ!!学生部が信用できんのだったら学生をやめろ!!」

黒田氏は憤然と学生部次長室を後にした。学生部は体育会総務を呼び出し、校友会参加を決めるよう強く要請した。7月幹事会で各部に校友会について説明し、その場ですぐに体育会の解散と校友会参加を決めよという強引な内容であった。体育会幹事会は紛糾した。大学学生部の姿勢を非難し、学友会解散校友会成立の手法も批判すべきという意見が続出した。学生部が圧力をチラつかせたことで、校友会参加はやむえないのではないかという意見もだされたが、結局、7月幹事会だけで返答せよということ自体、無理な話であった。体育会幹事会は結論を出さぬまま大学側に対する回答を保留するという結論を下す。大学が体育会をつぶそうとしていることが伝えられると、顧問教官やコーチの間にも反発が生まれ、それが大学・学生部側への圧力となっていった。

小坂学長、体育会幹事会に来たる

1995年、7月下旬異例の月2回目の体育会幹事会がもたれることになった。そしてその場は、いつもの学館2階の集会室でなく、大学事務局の評議会等が開かれる会議室で行われたのである。体育会と大学の対決を聞きつけた、中核派の永山氏(仮名)が議場の外から「体育会、がんばれよー!!」と叫ぶ声が聞こえた。そんな異様な雰囲気の中、体育会幹事会が始まった。そして驚いたことに小坂学長自身がはじめて体育会幹事会に出席し、演説をぶったのである。学長自身の登場に体育会幹事の間に緊張が走った。小坂学長は校友会のために体育会の力を貸してほしいと演説し、ぜひとも校友会への参加を決めて欲しいと要望した。学長は演説を終えると退席し、樋口次長が質疑に参加した。樋口次長はひたすら頭を下げて体育会の校友会参加を要請した。

しかし、学生部が圧力をチラつかせたこと、体育会総務を旧学友会総務のための裁判の盾としようとしているのではないかという質問が続出し、大学・学生部の手法への非難も集中した。結局、この幹事会でも体育会は校友会参加を決定しなかった。

この後、学生部は黒田氏を次長室に呼び、あらためて校友会参加に体育会を説得するように要請している。学生部側は体育会幹事会における学生部への激烈な非難の集中に焦りのいろを見せていた。黒田氏は連合組織以外の体育会校友会参加はありえないと答えたが、大学側はあくまでも校友会一本化にこだわり、会議は決裂した。

しかしどれだけの抵抗をしても、考え方を変えない大学側に対し、体育会側もあせりと疲労感を覚えていた。

大学側は体育会費を徴収せず純粋に圧力のみで体育会を屈服させようという考えに変わりつつあった。もしそうなれば、いくら抵抗しても体育会は空中分解することは避けられなかった。会費問題は入学案内を作成する9月までには決定しなければならなかった。水面下で大学側と体育会側のギリギリの攻防がつづいていた。

岡山大学体育会の賭

そして9月、幹事会でついに体育会は条件付校友会参加を認める。校友会の会則を改正し連合組織とすることを条件としての校友会参加であったが、そのような約束を大学・学生部が守るかどうか疑問であった。体育会にとってこれは作戦の変更であった。大学・学生部を出し抜く作戦が、密かに進行しつつあった。これは体育会が自らの組織の存亡をかけた大きな賭けであった。

新たな校友会会則案が密かに作成されていた。岡山大学校友会会則の中に「岡山大学体育会」と「岡山大学文化会」の組織を明記し、体育会総務と文化会総務で構成する校友会総務協議会と体育会・文化会の幹事で構成する校友会幹事総会を規定し新たに、一般学生が直接校友会の運営に参加できる校友会全学総会を規定しているところがその案の特徴であった。

新会則は体育会幹事会の承認を受け、校友会会則体育会案として旧学友会代表団と体育会総務の話し合いに持ち込まれた。

体育会が独自案を出して来たことに旧学友会総務の松下氏は激怒した。しかしその内容を見て、十分納得のいくものであることを認めた。そしてその協議会で全会一致で認められ、912日の第一回校友会幹事会(幹事総会)に提出されることになったのである。

しかし旧学友会総務の松下氏がこの情報を大学側に漏らしたことで大学側は体育会側の作戦に驚愕し、幹事総会の前日に黒田氏を学生部市長室に呼びだしたのである。

学生部次長室で黒田氏、松下氏そして樋口次長、河田課長補佐の間で話し合いがなされた。学生部側は明日の第一回の校友会幹事会(幹事総会)での会則提起は止めて欲しいと主張した。黒田氏は会則提示は体育会と旧学友会代表団の協議により決められたことであり、自分の力では提起を止めることはできないと主張した。学生部側は妥協案として会則改正権を評議会に委譲する案を提示し、これを明日の校友会幹事会(幹事総会)に出すよう要請した。会則改正権以外は体育会案のままであった。初めてこのギリギリの段階で学生部側は連合組織とすることを妥協したのである。体育会の奇襲戦法ともいうべき会則案提起により大学側と体育会側の力関係は圧倒的に体育会側の有利になっていたのである。旧学友会側も体育会案を了承してしまっていることが決定的に学生部を不利にしていた。

黒田氏は「校友会の会則改正が校友会幹事会(幹事総会)で決定できるということは大学の最高決定機関である評議会が決めたことだ。大学/学生部は評議会の決定に逆らうのか。」という学生部が学友会解散のときに学生部が使った論理を逆手にとって学生部側を沈黙させた。決着はついた。

松下氏の裏切りと大学側の巻き返し

1995年9月第一回校友会幹事総会。その開始5分前、大学側は旧学友会総務松下氏を使って、形成を逆転すべく大きな賭にでた。松下氏が文化会総務(前日に決定)と体育会総務を急遽招集し、今日だす予定にしていた校友会会則案を大学側の反対があるので出さないことにしたいと主張したのである。文化会総務もそれに賛同した。体育会側や約束が違うとして、その場で激しい口論になった。「大学の圧力に負けて、会則案を出さなければ、校友会は大学のロボットになる!!」1「大学とケンカしては校友会は成り立たない。」幹事総会開会を前にしての口論により幹事総会の開会は遅れた。結局、会則案は幹事総会に出して説明はするが、承認は次回幹事総会で行うということを決定する。

連合組織「岡山大学校友会」の出発

大学側は、体育会の提示した連合組織案をベースにしながら、細かな修正を加え、大学に有利な会則案を作ろうとしていた。

10月8日、学生部は新たな校友会会則案を体育会・文化会両総務に提示した。大学の管理強化が色濃くにじんだ会則だった。

10月10日、黒田氏は大学側の校友会会則案は管理強化が強すぎるというビラを貼り、大学側を揺さぶった。10月11日、学生部は黒田氏を呼び、会則案の協議を行った。大学は会則改正権を評議会に渡すこと、学長・学生部長が体育会・文化会総務と話し合う、合同委員会の設置を求め、黒田氏は学生部が設置を渋っていた全学総会の設置を求めた。こうして校友会会則の最終案が作成され、総務協議会の承認をうけ11月8日幹事総会に提示され、1ヶ月後の幹事総会の承認を受け新しい「岡山大学校友会会則」が成立した。こうして体育会と学生部の虚虚実実の駆け引きは決着したのである。

岡山大学体育会は校友会会則の中に岡山大学校友会を構成する組織「岡山大学体育会」と明記され組織の存続をはたした。そして「岡山大学体育会」「岡山大学文化会」「岡山大学医学部校友会」「岡山大学歯学部校友会」「岡山大学第二部校友会」を含む新たな連合組織「岡山大学校友会」が出発した。

エピローグ

1995年10月、岡山大学体育会は旧学友会の体育系10サークルを合併し46サークルとなり、(文化会35、医学部30、歯学部15、第二部5)校友会内最大勢力の組織となった。

体育会総務委員会はかつて現代思想研究会の部室であった部屋の前に立った。その場所はかつて原理研がそして中核派がその活動拠点としたところであった。ドアの鍵が開けられ、彼らは部屋の中に入っていった。しばらくして一人の総務が部屋の外に出てきた。そしてそのドアに「岡山大学体育会総務委員会室」という張り紙をした。

「永続する学園紛争の最期の拠点」はこうして学園紛争の洗礼を受けなかった彼らのものとなったのである。

1996年3月、岡山大学体育会・法経学生会などが坂本派の影響力から大学祭実行委員会を守るため組織した大学祭主催組織全学協議会はその使命を終えたとして解散した。大学祭実行委員会は校友会会則第4条の特別組織としてあらたに規定された。旧体制の崩壊と新体制の構築が終った。学生史はつづく。

 

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